古代日本に存在したとされる邪馬台国は「邪馬壹(やまと)国」で、徳島県内にあった――古代史研究者3人がそんな説を唱え、「邪馬壹国は阿波から始まる」(原田印刷出版、A5判270ページ、税別2300円)を出版した。この説をめぐり、全国の研究者でつくる阿波古事記研究会などが22日、美馬市脇町で「古事記 やまと全国大会」を開く。
執筆は阿南市の三村隆範さん(72)と土佐野治茂さん(64)、北島町の永井英彰さん(82)。
三村さんによると、本来の邪馬壹国が表記を重ねるうちに邪馬台(臺)国とされた。邪馬壹国は当時、日本列島にあった倭国(やまとこく)と同じ意味で、「やまとこく」と読むべきだとする。また、国生み神話の高天原は神山町にあり、女王卑弥呼も同町にいたと主張する。(続きはソース)
朝日新聞デジタル 2019年9月19日03時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM9D6KPLM9DPUTB009.html
★1:2019/09/22(日) 23:13:01.18
http://2chb.net/r/newsplus/1569161581/ 支持するわ
九州の邪馬台国商売も頭打ちだし次は四国阿波に良い思いさせてあげるべき
それより2代目はいよじゃなくてとよらしいよ。
息子に指摘された。
>>1の地図見たら大分から四国へ渡るルートなんだな
邪馬台国は山大国
つまり日本アルプスあたりにあった
>>13
そう、だから伊勢神宮外宮の神様の「豊(トヨ)受大神」が
台与ではないかという説もないこともない。 阿波説はおもしろい、ロマンがある
畿内とか九州とか手垢とエゴと権益にまみれたゴリ押しよりよほど夢と希望がある
魏からもらった鏡とかニセモノつくって埋めとかないと
>>11
おれは九州論者だけど、邪馬台国近江説もうなずけるとこあるよ。
大和朝廷の前の、「天の王朝」の所在地としてね。
菊池山哉の探訪紀は読んだ?
あの銅鐸の数、何かあったことは間違いない。
1 九州 久留米 祇園山古墳←卑弥呼の墓
2 四国説 大杉博の本読むと圧倒される ただ、あそこに7万戸は無理
3 近江説 尊敬する菊池山哉が唱えてるから、もしかして…
4 にんげんのクズが信奉する「畿内説」
関西弁て、阿波徳島からきたんだろ?
司馬遼太郎が書いてるけど
司馬遼太郎は誰かから聞いたみたいだよ 邪馬台国は、熊本だよ
問題なのは、邪馬台国が、古い古文書にあることで
マスゴミが神聖化して
国民を扇動してカネ儲けしてること
焚書をしない日本
秀吉が、九州・肥後の文書をすべて焼き払ったことは
マスゴミは絶対に報道しないよな
他説より優れているところが何一つない
辰砂が出ればいいのなら三重県でもいい
>>20
もっとまがまがしいもんにまみれてるかもしれんで。 >>21
阿波説の直線距離ハイテク測定技術よりインパクトのあるやつでお願い。 徳島は無いなぁ。
小さな古墳はたくさんあるが邪馬台国レベルじゃないし、淡路島は何か重要な拠点だったみたいだが
邪馬台国とは別物の畿内か播磨丹波あたりの王権の話だろうし。
なんでもかんでも邪馬台国に結びつけるのはよくない。
>>33
まあどちらかといえば阿波って天皇のルーツの話だよね 新唐書
>凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。
>彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。
尊32代が筑紫に住んで
神武が奈良に行って初代の天皇となった
新唐書
>日本、古倭奴也
ヤマト、古の倭奴なり
漢委奴国王の子孫だと遣唐使は報告したのかな
自費出版だろうから売れずに赤字だろ
まあ赤字覚悟だろうけど
邪馬臺国を「やまと」と読むのは漢字マニアとしては賛成だな
古代の中国語音からは臺は「と」と発音していた
同音故に「台」で代用した
つまり本来別字の「台」も当時は「と」と発音されていた
さらに万葉仮名で「と」にあてる漢字は「止・等・登」が一般的だが、「台・苔・藤etc」も用いられていた
>>42
万葉仮名や漢文に精通していた当時の記紀の編纂者が邪馬台国は大和のことだと言ってんだから 旧唐書と新唐書で中身が違い過ぎるのがそもそもの原因
旧唐書は中国側の資料に基づいて書かれていて、
新唐書は遣唐使が持ち込んだ日本の資料に基づいているんだろうな
そう考えると、中国側は古くから付き合いのある倭国と最近隆盛してきた日本の二つがあると
認識していたのを、日本が「いや、私たちは倭国と同一ですよ」と名乗ったっぽい
>>44
ただし卑弥呼に相当する天皇がいないので困っているみたいだが >>44
発音字体が、邪馬台国=ヤマトコクにすべきだと言うことでね
教科書レベルで >>47
記紀の編者がそう読んだから大和と思ったんでしょ。
現代の研究者じゃなくて万葉仮名作ったような中の人がそう言ってんだからこれ以上強い物はないわな 四国の八十八か所巡りも元をたどれば恐らく邪馬台国時代の風習に起因していると思うわww
>>49
大杉博さんの説によれば、ヤマト王朝の出自国隠しを、空海にやらせたのが発祥らしい 大麻比古神社
忌部氏の祖、大麻比古祀る
大麻比古、又の名は津咋見命
かつては猿田彦大神が主祭神だったみたいだ
何故変わってしまったのか?
なぜ阿波国一宮が猿田彦大神だったのか?
猿田彦が無くなる時にできた御魂と関係あるのだろうか?
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」【あわさく御魂】
アワサクは阿波に関係するのだろうか?
この辺が解明できたら阿波の歴史が明らかになりそうだな
>>51
唐から帰国したときは誰それ?みたいな状況から最澄と同格まで上り詰めた人物ではある。 >>50
僕は東北〜アメリカ大陸西海岸に送り込む鉱山技術者を募集して周る上で
世話になった寺なんかなと思ってた。 そもそも忌部氏の出身地は伝承では奈良県橿原市だろ
そして伊勢なんかの神事をはじめる
忌部氏が地位を確立したのは4〜5世紀くらいからで
邪馬台国の3世紀とは時期も違う
忌部氏の一番メインの氏神を奉る寺社は
出身地の奈良県橿原市忌部町の天太玉命神社だろ
徳島県鳴門市の大麻比古神社の扱いはここより低いんじゃないか
出身地じゃないし
著者の一人である永井氏の地元、北島町の図書館で「邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる」を探してみた。
なかった。
それではと大きな本屋に行ってみた。
なかった。
あっちこっち探してやっと見つけた。
私は香川県と徳島県を同一文化圏と見なして邪馬台国だと比定している。
が、詳しいことをさておき、立ち読みした感想を述べる。
第二部の邪馬台国はどこか?
帶方郡より12,000里ある。
今なら2点間の距離を直線で表現するのは常識であるが、海を越えた2点間を直線で表示していた。誰もが考えつかない案であり素晴らしい提案であった。
これにより徳島説が浮上するのだが、
発案者は「歴史でまちづくり推進協議会」梨目正氏である。
このことは記述されていない。
さらに測定方法に誤りがある。
月食は点光源であり太陽のような面光源ではない。
よって著者の説は成り立たないのである。・
根本的なことを間違って発表すると、答えが正しくとも誰も信じない。
残念である。
最後に12,000里が直線である事を証明する方法は、
当時の科学で4通りあることを付け加えておく。
>>2
縄文世代が何か言ってるwwwww
いまだに縄文土器を使ってるんディスかー?
プププ 呉座先生とか、何か言わないかね。
考古学は専門じゃないのかな
今終わったよ、三國志〜司馬懿〜軍師連合。おもろいよ。この時代中華は凄かったなあ。親魏倭王貰って何処に隠してあんだよ。
>>56
むしろ忌部があったことが阿波説のネックかもしれないな。
忌部は技術集団であるとともに、重要拠点の一つと考えられてた阿波の監視役でもあったろうからな。
大和に抜け駆けして中国王朝とやり取りすることは考え難いな。 邪馬台国の場所はハッキリしないが、魏で皇帝に会った使者は九州の人。そして邪馬台国の本当の名前は「やまと」。
皇帝に謁見の時にあまりに緊張しすぎたか長く待たされてイラついていたのかわからないが、「何処から来た」の問いに、つい方言が出てしまって「やまとタイ!」と。
しかも早口だったので「やまっタイ!」にしか聞こえなかった。
>>59
月食によって同時刻を特定したってこと?
でも、月食って1時間くらいかけて欠けるみたいだから、
肉眼で確認じゃ時間誤差だけでも例の短里じゃ1000里以上誤差出そうな気がするけどな。 でも、資料館とかで月位置の経度を各年代でどういう観測機材を使って
どういったメカニズムでどのくらいの精度で測定できたかなんてのを
紹介しといて欲しいかな。
卑弥呼達は黄巾の乱から逃げてきた道教の宗教集団だぞ。西王母が卑弥呼、東王父が盤古天王。東海の芙蓉を治めるんだよ。太平道か五斗米道だな。卑弥呼は三十六計も理解してる。この宗教団体が漢倭奴国王朝を乗っ取ってる。卑弥呼の前に天王は居ない。
文字もないとされてるが道教教団には階級があるので統率力をもってんだよ、何で奈良?と思ってたが東海の芙蓉を治めるのが東王父なんだと。でどんどん移民を受け入れるのも本分らしい。古墳掘ってもダメだろ道教じゃ?
つまり宗教本記紀を信じるなら信者に成りきれない仲哀は処理されるんだよ。238年より前に天皇は存在しないと思うね。
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邪馬台国では少なくとも知識人は文字を使えたようだがね。
傳送文書賜遺之物詣女王(文書や授けられた贈り物を伝送して女王に届ける) >>67
12,000里のうち1000里の誤差でも10%以内だ。
帶方郡から東南に直線で12,000里
このことが認識される事こそ重要であると思う。
可能性のある場所は、九州南部と四国東部である。
さらに東の対岸1,000里に別の倭人が住んでいる。(対岸は目視可能)
そうすると場所は限られてくる。
ちなみに短里計算なので卑弥呼の墓は25m前後の円噴である。 田舎者罵倒嘲笑文学の夏目漱石さんにコケにされた四国人
そりゃ切れるわ、イナゴを布団に放り込まれりゃね。
明治時代も終わりの方になっても土人丸出しの四国人。
漱石さんのベスト作品はこころではない、坊っちゃんだね。
このスレなぜか@阿波が出張ってこないな、いたら鬱陶しいけど、なんでだろ?
誰かに、ネガキャンになるからレスするなって止められてる?
>>79
夏目漱石がコケにしたのは松山だけじゃい。他までまきこむな。
承久の乱後、鎌倉幕府が後鳥羽上皇を隠岐に流罪にして折り、子の土御門天皇が父である後鳥羽院が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないと、
自ら申し出て土佐国に流されたが、
幕府は、土佐は流石に鄙すぎじゃね?と阿波に流しなおししているから
、土佐は幕府公認の田舎、阿波はNOT田舎。
鎌倉幕府は、卑弥呼以来の阿波の伝統を重視していたに違いない。 >>78
1000里の誤差でも、紀伊や伊予に変わってしまうわけだし、
少なくとも1000里と思ったので2000里や3000里の誤差の可能性もあり得、
短里を求めるのに使った部分が7000里だから、
合わせた誤差は50%を超える可能性だって考えられるかもしれない。
時間誤差に加え、更に天体位置の経度測定時の誤差も加わるだろうからな。 >>80
あいつの文体、ジジー臭いし
(72)(64)(82)の誰かなのかもな >>58
大麻比古神社の神階は、従四位上
天太玉命神社は従五位上
神階は大麻比古神社の方が上だな。 >>82
月食の場合 地球上同時に起こる。
月が消えたり、出たりするときの誤差は1〜2秒以内だ。
日の出や日の入りを見ていればわかる。
問題は現地時間を計る水時計の誤差である。
毎日真北時に修正していれば、誤差の範囲は2分以内。
緯度の測定が正しければ、
12,000里の測定誤差は±500里位内となる。
数字は嘘をつかない。 >>85
>>67 に書いたことも読んどいてくれ。
時計があるなら、月食を利用する必要もない。 >>86
使用する時計は現地時間の時計だ。
つまり、太陽が真上に来たとき12時となる。
同じ緯度なら、遠く離れたA、B、C地点では日の出は同じ時刻に起こる。
が、月食は、月が見えている場所なら同時に起こる。
つまり、時差が生じる。
たとえば、A地点では8時、B地点では10時、地点では11時といった具合だ。
この時刻を洛陽に持ち帰り比較してみれば、時差がわかる。
地球の回転は1時間につき15度
AとBとの経度の差は30度である。
肉眼で数人が地球に月が隠れた瞬間を計れば誤差は生じない。
月が出た瞬間も計れる。
あとは水時計の精度だ。
どのぐらいの精度かはウィキペディアで調べてほしい。 >>87
話がかみ合うかをテストしただけ。
経度測定について最低限の知識があるか、ふざけてないなら、
月食など天体現象を利用して同時刻の特定を行うなら、時計はいらん。 そもそも記紀神話ってイザナギとイザナミの国産みと、アマテラスの天孫降臨と、
少し飛んで神武の東征のそれぞれって連続性がないっていうか別の話みたいな
印象なんだよね。
八倉比賣神社があるからな、近畿にそういう伝承を伝えてるところがないしな
まあ国産みをみると確かに四国から九州や各島などを制覇して最後大和を制覇していったのかなとも思わないでもないが
そこだけだな
結局高天原がどこにあるか分からん限りは
四国も高天原ではないと言ってるわけだから
白村江の海戦で敗北した 和人と百済人は
命からがら残ったわずかな船に乗って 半島から逃亡
日本列島に逃げ延びた
彼らの胸にあるのは 新羅人への憎悪だけだった
百済人は 関東の僻地に移され 開拓定住していった
知識を持つものは 都にいて 官僚に利用された
天武天皇が記紀を編纂した時 亡命知識人が使われた
彼らは 百済=ひゃくさい を くだら=我が祖国 と読むように
注を付けた 新羅=しんら を しらぎ=憎むべき敵 と読ませた
戦後 唐は二千人の唐軍を北九州に上陸させた
武装外交であり 敵情視察だった
兵は北九州にとどまり 幹部は都にきて朝廷に出入りした
唐は日本征服を企図 その情報は日本にもたらされた
>>93
また、国生み神話の高天原は神山町にあり、女王卑弥呼も同町にいたと主張する。(続きはソース) 高天原は東国だとおもうけど
タケミカヅチもオモイカネも皆東国だよ。
東国が西日本を征服する話を何らかの理由で高天原が征服するする話にすり替えたんだと思うが
弥生人も天皇も縄文系だと判明したし
神武天皇が九州の人なんで、神武天皇が卑弥呼の先祖なのか、それとも子孫なのかで話が変わってくるよな
赤の他人という可能性もあるが
平原1号墳の女王の親族である卑弥呼が引越ししたが
天皇が一番えらいことになってる記紀には書けないので
代わりに神武を作った
神武の代わりなので卑弥呼は引越ししてすぐ王になったと思われる
つまり遷都
卑弥呼は崇神の頃の人だから普通に考えたら神武より後の人だわな
天皇はキョンシーだと理解した。阿波も片腕として渡来した者が丹砂で薬でも作り神農の一端を担っていたと思う。卑弥呼女王国は道教西王母国で間違いないと思うけどね。
>>101
そこは崇神天皇の頃の人という根拠を示さんと >>103
神功皇后の事績が他国の歴史とちょうど120年ずれていることが分かっている。
七支刀とか三韓征伐とか
つまり神功皇后は4世紀後半に崩御した人ということ
神功皇后より後の天皇で100歳を超えてる天皇が2人いる。
つまり100歳超えた天皇は60歳歳を足されている可能性がある。
それが2人だから120年ずれる。
100歳超えてる天皇の年を60歳引いて年代を計算すると卑弥呼の時代は崇神あたりにくる。 纏向は崇神が都にしたところで、それもあって学者は邪馬台国じゃないかと言ってると思う。
>>105
崇神の御代には説話があり、魏との外交や狗奴国との戦は書かれてないのに、
畿内説の人間が記紀を軽視しようとするのはおかしな話やな。 そうなんよね、畿内説の人たちは記紀をあんまり重視しない
>>106
崇神の御代に4道将軍を派遣して平定している。
吉備と東国、丹波などを平定している。 >>108
その後ヤマトタケルを派遣してることからしてその時点では東国は平定できてない。 欠史八代までは尾張や伊勢、吉備から嫁をもらっているが、崇神後継体まで畿内や播磨あたりからしか皇后をもらわなくなった。
景行が美濃からもらったくらいか?
崇神天皇10年9月が濃い
崇神天皇3年
三輪山のふもとに遷都
崇神天皇5年
祟りによる疫病で多くの人が死ぬ
崇神天皇6年
これを鎮めるために天照と倭大国魂を奉っていたのを皇居の外に移設
崇神天皇7年
2月 大物主が百襲姫に敬い祀るように告げる
8月 百襲姫を含む3人が再び託宣
11月 大田田根子を大物主の神主として
市磯長尾市を大国魂神の神主とすると疫病が終息して五穀豊穣
崇神天皇10年
9月
四道将軍が出発するがその一人の大彦命が
不吉な歌を歌う少女にあって引き返して
百襲姫の占いで武埴安彦とその妻の吾田媛の謀反が発覚して
大彦命や吉備津彦によって鎮圧
武埴安彦はその妻の吾田媛は討たれる
百襲姫が祭事上の夫である大物主神との昼間の接見を願い
大物主が昼に姿を見せるが白蛇の姿であったため
百襲姫は驚いて急に座ったときに箸が刺さって死亡
百襲姫の墓の建造を開始 箸墓と呼称
10月
四道将軍が再び出発
上のは日本書紀ね
武埴安彦が百襲姫の甥
吾田媛が九州出身であることから
この叛乱に百襲姫や九州からの引越し組が加担していて
先に大和に来た人 VS あとから大和に来た人
の戦いがあった可能性
そして箸墓が百襲姫の墓なので卑弥呼の可能性
四道将軍か、これも三清四御からだね。ホントにあった話かねえ、この辺の天皇は順序も疑いたくなるだよな。ヤマトタケルといい神武といい開化なんてのもいるし。嫁さんの系譜まで揃えてるのに肝心の卑弥呼は隠してる。
>>114
ちょうど四道将軍が活躍したと思われる頃の遺跡は纏向だが
派遣先である、吉備、東海、丹波あたりの土器や埴輪、鉄器などが纏向に出現しはじめたのとよく合ってるけどね 太陽系は、現在「銀河系の最も中心部に近づいて」おり、
地球を含む太陽系は非常に高いエネルギーが支配する宇宙の領域に突入する!
>>115
3世紀後半纒向遺跡から突然吉備系の土器が消えるぞ みとのまぐわいが淡路島で行われたんだからもう四国でいいよ
>>81
いや、土佐も阿波も流刑地だったってことですよ >>117
九州北部⇔畿内の交易の中継点として潤ったので、人が流出しなくなったんじゃないの? 121名無しさん@1周年2019/09/28(土) 13:00:53.900
四国説だと神武東征の説明がつかない
>>51
あまりにも嘘くさい人物ではある
聖徳太子みたいにいろいろな人の業績を背乗りしてる 四国なわけないわ
なんで大和朝廷ルーツの地を流刑地にするんだよ
稲荷山鉄剣の所有者は大和と関係ない地方豪族だという人いるけど
それならなぜ熊本の江田船山で類似した銘文の入った鉄剣があるのか
これは地方豪族というより、当時から大和が九州から北関東以上まで勢力を抑えていた証左だろう
徳島の剣山の剱山本宮例大祭という奇祭 剣山山頂に神輿を担ぎあげる
これはノアの箱舟をアララト山に担ぎ上げたのと一緒だ
7月17日の日も一緒 剣山は1955mの高峰だ 不自然すぎる
因みに伊勢神宮の八咫鏡を納めてる入れ物を船形と言う
>>94
白村江での敗戦後
倭国王が唐に捕虜にされて唐に抑留された記録がある
唐によって焚書が行われたこと
唐の傀儡によって歴史が改竄され記紀が書かれたことは事実だろう それは唐の勘違いだろう
誰でも知ってのとおり天智天皇は捕まってない
九州豪族の指揮官を唐が何らかの目的で倭国王としたんだろう
こうも考えられる 遣隋使を送ったり
小野妹子の帰国時に同行した裴世清が難波まできたけど
白村江の頃でも大陸では日本列島がないことになってる
魏志倭人伝の記述のとおり点々とした島があるだけだと
唐は考えていて征服しても得るものがないと勘違いして
攻めてこなかったと考えてる
その後天智天皇は遣唐使を再開させて友好政策をとって
捕虜は無事帰ってくる
>>131
僕は、蘇我氏は九州北部や親百済勢力をバックに力を持ってて、
天智は本州日本海側や親新羅勢力をバックに力を持ってたんじゃないかと思ってるので、
天智は唐と組んでいろいろ画策してたグループのリーダーだったじゃないかと思ってるかな。 古事記に、神武は宮崎の日向から出発したと書いてあるんだから、そのまんまやろ
その時代に初代の出自で嘘を書く理由がない
宮崎は弥生の早い段階で瀬戸内と活発な交易を行っている。
間仕切り型の住居に住みつつ青銅器を無駄に崇めないなど他とは異なる精神性の高さがある。
>>134
天皇と呼び始めたのは後世からだが、初代に相当する人物(=神武)が
いなければ何も始まらない 要は金印が見つかればすべて解決する問題
金は腐らないから、可能性はある
邪馬台国は西都原古墳群あたりやろ
久留米から筑後川水行して日田当たりで降りて陸行1ケ月でいける
>>140
阿波踊りは年に1回しかやらんからなかなか苦しいよね 徳島が邪馬台国というのは
栃木が今でも日本の首都だったという
基地がイ発言レベル
失われた10支族で売り出した方が外国人くるしワールドワイドでいいんじゃないか?
>>135
銅鏡や銅鐸を崇める民族集団に属さないというより
敵対してた勢力の感じだな
南九州の勢力は何ものでどこに進出したのか 結構核心ついてきたな
かなり早い段階に宮崎に到達した集団は吉備に移住し勢力を拡大した
そして、吉備から畿内と出雲へと侵入した
それが孝霊天皇&モモソの頃
>>134
年代とかは嘘だけどモデルになった人物はいる 神武を信じてるのは九州説に多い印象
畿内説の人は割と現実路線っぽい
>>144
記紀はそういう風に読むものじゃないぞ
神話であり民話
細かい年代や事象の正確性を見るものではない
歴史書として信頼出来るものではないが大まかな歴史の流れや出来事は掴める
非現実的な事でも何らかの事実をモチーフにしているものだし
そうでない場合も「何を正当としたがっていたか」という大和朝廷の思惑は見えてくる >>151
現実逃避しているのが畿内説という印象だけどね
神武東征が何らかの事実を反映した記述だとすると畿内説じゃ都合悪くなるから無視せざるを得ないというのが現状
九州説畿内説双方の言い分を沢山読んだけど、どうも畿内説は学問的じゃないんだよなあ
魏志倭人伝に書いてあることも素直に読まず結論ありきで捻じ曲げて都合の悪い記述は無視するという態度が目立つ ちんk岩とか
まんk岩がひっそりとあるんだけどな
神話の話がいたるとこである
それが徳島
>>147
ジャップは歴を知らないから春植えて秋に収穫する農耕で1年としてるって父が書いてるだろ >>153
神武東征が何らかの出来事を反映していたとしても畿内説にはまったく影響ない
そもそも、邪馬台国と神武東征を結びつけるのは文献改竄と同じ
まあ、東遷説は年代が逆になるから、現代の考古学や自然科学の知見で、
100%成り立たないことは確定済みだからどうでもいいが
あんなのは小学生向けの読み物の中での話 九州説の居場所はもうネットしか残ってないんだからあんまりいじめるなよ
神武東征があったかも大事だけど、
なぜそんな物語を大和は採用したのか、
これについて納得できる説明は今のところないな
大和の九州支配を正当化するためなのか
大国主のように王権の傍系に据えるなら分かるが、王権そのものの発祥地を九州にしてるからね
王権の大和アイデンティティを捨てなくちゃいけないほど、九州の勢力は強大だったのかね?
>>159
そんなこと言ってられるのは今のうちだけだと思うけどなあ
なんでこの時代の学者は畿内説なんてしょーもないものを正しいことにしようとしてたんだ?
ってなるのが目に見える
学究的な態度じゃないし根拠が乏しすぎるんだもの
邪馬台国しか追ってない人には分からないかも知れないけど
普通の歴史学や理系の論文であんな風に自説を展開したら教授からぶん殴られるようなことを平気でやってるしなあ >>本来の邪馬壹国が表記を重ねるうちに邪馬台(臺)国とされた
この前提が空想の域を出ない以上、全くお話にならない説ではある
ほんとに考古学で邪馬台国や卑弥呼のこと分かると
考えてんのかね 文献や史料が無ければただの古物だってこと
まだ気づこうとせんのかね 哀れだわ
わしは福岡県にあった国が大陸との交易で貰った道鏡を
畿内のヤマト朝廷の前身の国に持たせたと思うな
それは九州勢力が畿内にまで拡がった証拠として
そして、畿内にいた元々いた銅鐸祭祀民族が、信濃に逃げた国譲りの神話は史実だと思う
>>160
当事、大和の源流は九州と言うのは常識だったんでしょうな。
しかし邪馬台国には触れたくなかった。邪馬台国から逃げてきたから? 物的に平原が弥生最後の九州の豪華な墓で鏡が40枚あって
3世紀に突如鏡が広がって銅鐸が終わる
状況から王族の引越しと
新しい宗教が近畿にもたらされたということになるじゃん
>>167
2世紀末の平原1号墓の40枚のうち38枚は国産鏡
柳田氏が詳しく検証して、公式報告書で国産鏡と結論を出した
鏡の型式は後漢鏡なのに、成分分析をしたところ前漢鏡と同じ成分と出てしまったんだから
スクラップを鋳潰して作ったか何かだろう
残り2枚も100年前200年前の鏡の伝世だった
平原1号墓は、言ってみれば、在庫一掃セールみたいなもの
北部九州は、2世紀後半には中国鏡の入手が困難な状況になっていた >>53
最澄と同じ大学で学んでどちらも天皇の命で唐に渡ったのだから全く無名な人というわけではなかっただろう
唐に渡る前の時点で最澄がトップだとしても空海はナンバー2くらいの位置にはいたはず
もともと20年かけて密教を学んで来いといわれていたのが半年でマスターしてしまって勝手に帰ってきてしまったのが入京を拒まれた原因なのだけど
当時密教をマスターしていた日本人は空海しかいなかったことから周囲がいろいろと動いてくれて入京を許されている
なお空海は唐で密教だけでなく薬学や土木学も学んできているといわれるが
父方の佐伯一族はもともと土木工事の元請や施工を代々行っていた家系なので空海にはもともと土木の素養があったためそちらもマスターできたのではないかと言われている 神武の東征を読むとわかるんだが、実質は吉備から畿内への征服物語なんだよな。